天と地の |
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実行の時代 今、社会にグローバル化が進み、人には個人化が進んで、人生の有り方にしろ生活の目的にしろ、 良くも悪くも若者が及ぼす世代感覚の感性は、常に世相に反映されて新たな時代を作る原動力となり、現代社会の常識を重んじる大人社会からは批判を受けるのである。 しかしその情勢もここ昨今にあっては、世間全体が人や社会に対する冷ややかさを増し、個々の私生活を中心とする生き方に反映してきている。現代は人や世間体にとらわれる必要がないと言えば、それは人すべてに共通したものであり、人それぞれの生き方の自由を尊重すると言えば、何処か人に冷め切った、他人事のようにも感じたりする。 我々は今日の社会構造の中で、未来への期待と不安が交錯し、人に頼り社会に頼る従来は終わったように思うのである。ここ人それぞれの生き方が多面的、社会が多様化した現代、個人単位としても新たな時代性を創出する自らの生き方に、社会人としての責任を自覚する必要があるのではないだろうか。 また、現代は情報通信社会の発展と風俗の乱れにも乗じ、目的願望が安易とも容易に実現化させられる方向へと加速している。こうした社会性が進めば進むほど、合理的なようであって対人関係は更に難しく複雑化し、社会と私生活との2面性から孤立へと向かう要因にもなってゆく。 現代は特に緊張感、危機感の緩んだ生活の中で人間関係に冷め、人に対する猜疑心も募ってきた時代である。人はそれぞれの持つ価値観によって人生の目的を選択してゆく事はできても、この世間にあっては同じ価値観を長く持続できる人との関わりは少なく、現実、人それぞれとの出会った縁の絡みによって生み出してゆく事の方が多いのである。 この世の俗説において、赤い糸を男女の縁と呼ぶように、縁には良縁もあれば解ける縁もある。また絡まる糸や長い縁や短い縁と、人生は人との禍福によって ここ時代を 社会を動かしてゆく力が組織力であるならば、その原動力を生み出してゆくのは、人の和による結束である。我々は江戸末期の時代を動かしていった、この3人3様の憂国の士の格言から垣間見て、なぜ現代に求められる人物像であるかを学び、現代に失い掛けている人生の意義というものを掘り起こせればと思うのである。 現代もまた権力下の中で社会が滞り、経済は足踏みしながら低迷状態のまま、多くの人がこの国の将来を憂う過渡期にある。道徳観が社会から失われ、人が人に向ける真の心の深さ、芯の優しさが伝わらず、体裁的な言葉遊び如きが蔓延し、人との関わりは避けて通るといった、社会全体が何処となく心を失いかけている昨今である。昔と今、過去と現代とでは時代性は違っても、何時の時代でも世の常、1人の人間として生きる道筋というものには違いはないのである。我々はこの3様の人物が教示した人生訓を参考に、自らを挑発して精神の高揚を計り、社会をより広い視野、また違った角度から捉えることができれば、生きるという新たな目標も目的も見出してゆけるのではないかと思うのである。 西郷隆盛が後世に教示していったものに、「命も要らず、名も要らず、官位も要らぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人でなければ、 また「艱難、汝を玉にする」という諺があるが、何時の社会でも俗人は利害損失にあくせくし、人の地位や権力に媚び、実力や器量にもない己を伸し上げてでも、名声や地位や財を得る事が出世であると妄想しきる輩の多いのがこの俗世の常である。 その手段として最終的には人を裏切る事を策謀し、私服を肥やす事を大事業として、人がへつらう事を喜び、立身出世の証を私物化して自己満足してゆくのである。今日の家庭教育や教育文化の実体というものも、家族や社会の主導的立場に立つ人間の力に人格、度量、道徳心が足りないから、世間を乱すようなこの程度の人間を多く輩出してくるのである。 「艱難、汝を玉にする」とは、自らが目的を持って希望を抱き、苦労、困難を乗り越えることによって、立派な人物に成長すると説くのである。 勝海舟は「改革ということは大きなものから始め、小さなものを後にするがいい。言い換えれば改革者が1番に自分を改革する事だ」と。人生に大きな目的と志しのある者は、高尚な思想をもって世に眺望を利かせ、先ずは自己改革の必要性を説く。自己改革とは、己の無能さを知ることから始まり、自己啓発に向けて、人の言が素直に聞けて理解ができ、実行できる者のことである。 また、人生の成功と失敗の境も、先ずは己自身の長所、短所を知ることから始まるのであり、人生に及ぼす浮き沈みというものもまた、道に学ぶところによるもので、人からの影響、感化は受けても、己の芯にブレがなく、自らの徳分を世(人、社会)に活かしてゆくことである。 坂本龍馬は「日本を今一度、洗濯いたし申し候、なすべき事を神へ願いにて候」と、江戸幕府から天皇への大政奉還の道を開き、開国を目指す志を詠んでいる。「われ死する時は、命を天に返し、位高き官へ上がると思い定めて、死を 人はそれぞれに持って生まれた性分(器量)と、ここに生まれ落ちてきた定め(運命)というものがあり、その人生を尽くして成してゆくべき糧、天命という本分を心に備えているのである。 「人間の寿命というものは、天が決めるもんじゃき、生きる時は楽しめるだけ楽しまんといかんのじゃ」。つまらぬ生き方に埋没することなく、己に宿る潜在意識を豊かに掘り起こして自らを高め、人生、天分に通じた本望に生きる事こそ、我々が素直に求めるべき本分ではないだろうか。 西郷隆盛は「龍馬の度量や、到底、測るべからず」と、人には精神面、愛情面、健康面、経済面、教養面など人生を全うするに欠かせない条件があるが、龍馬の技量や奔走する人間関係の構築など破天荒な男ぶりに感服したという。いろいろな要素が人生には欠かせないが、その根底になくてはならないのが、生きるという意欲と向上心である。私はこの3人3様の人物像を取り上げたけれど、他にも優れた人生を生きた多くの人達がこの腐敗した世を憂い、人と国との狭間にあって謳歌した人生訓を後世に残し伝えてきた。 【生きる】とは、 人はこの世の生の始めより、その一生を通じて良きにつけ、悪きにつけ言葉を残してゆく。 ・人は死んでもその言葉は、 ・人は生を願い求めて死を恐れ、永遠の存在(命)の道を求めるけれど、人の命は2000年を越えた今も変わらず、神の道、仏の道の その神道、仏教、そして儒教、道教が示す教え( 「人は皆、苦の原因ともなる煩悩「欲」を秘めて生きている。その身を精進して心を清め、命を天に向かって生きる」という実践の道を説いているであろう。 「この世の厳しさや人生の戦いは、己自信の内に向け、 【希望】とは、どの様な環境、境遇にあろうとも、誰もが描き、追い求められる生命力の根源であり、「その人の心の明かりとなって道を開いて未来を照らし、幸せを得る権利」を失うものではないのである。 これより次章の【信仰と心】に触れ、「信仰」とは何か、自らの体験を通し綴ってゆこうと思います。天と地の間に生きて:3章へ(信仰と心) |