(はざま)生きて生きる2
【社会人への旅立ち】

当時、小学校に通うようになった我々は、学校の先生から道徳や親孝行というものを学び、家庭にあっては父の威厳の中で育って来た団塊の世代の後期である
 私は小学校の頃、二度の瀕死な事故にあった事がある
 一つは、車に撥ねられた交通事故であり、友人の1人は死亡、私は緊急搬送される重体を負った もう一つは、屋根から逆さまに転落する重症な事故である
 生死の運命は友人と私を分け、片方では幼い命が奪われ、片方で
命拾(いのちびろ)いした私は、その後、人間の命の儚さを覚え、生きているという生存的な意義に、今も心の奥では友人との面影を残した生死一如に共存する感性が宿っている
 私はそれから、自分の命の半分は自分の為のものでもなく、友人の分まで報いてゆく人生を生きなければならないという感覚を覚えた程であり、一度となく二度までも両親に与えた気苦労と不憫さが、私に「生きろ」という運命の糸に(もたら)されているかのようである

 この長期に渡る二度の入退院で、私は小学校5年の頃より既に勉強に馴染めなくなり、学友からも学力で遅れている事を感じ始めていた
 そして学友との学力にずれを感じるようになり、人間という他人意識から勉強には全く興味が湧かなくなってしまった

その後、私立中学の男子校に入り、野球部、剣道部と入部し、先輩との上下関係を結構好んでいたものの、中学末期から素行も乱れ始めてタバコを吸う不良意識が芽生え、高校では空手や合気道を習って自己顕示して、不良仲間を作って行動をとる高校生活となっていった
 それが不良同士の先輩には親しんで貰ったり、逆に生意気だと反感を持たれる先輩からは、教室に呼び出される事もあった
 また、土曜・日曜日の休みには流行のファッションで装い、仲間と銀座に出かけてはナンパに耽っていった

そんな頃の野球部時代の学友が、ある日突然に高校を中退し、寿司屋に丁稚奉公として勤め出してしまった事があった
 社会というものに縁遠い学生時代に、突然中退していった友人が格好良く思え、初めて社会というものに目を向けた時でもあった
 先行く大学には
()したる目的もないし、手に職を付け、好きな人生を歩んでゆく、そんな自由な生き方に憧れてゆくようになっていった
 人間同志が組織していく社会には興味がなく、只、寿司屋に丁稚奉公に行った旧友に憧れ、母に「将来は寿司屋になりたい」と相談した事があった
 母からは「お前には寿司屋というものが勤まるか? 「朝は早いし、夜は遅くまでの長い仕事だぞ、そんな毎日の積み重ねを、お前は人生一生の仕事として続けて行くことができるか」と問われて、私はその一瞬で断念
 当時、両親が床屋を営んでいた事もあって、働く道を理容師の職人に相談した事がある
 「これからは理容よりも、美容師の方が面白いぞ」と教えてくれた。当時、昭和43年頃、同じような職業なら女性相手の方が楽しいと、そんな単純な考え方が今の職業を選ぶきっかけとなった

 しかし、父はあり余る不詳息子への感情を抑え「進学しろ、美容などの仕事は大学を卒業してからでも遅くない」と説得され、その理を得て定職を志す私の目的に一時を置く事にした
 そして、何の目的もない受験にただ夜な夜な、深夜放送を聞きながら大学入試の問題集に取り組むものの、憧れる大学には既に学力レベルが伴わない
 そんな自分を縛ってゆく時間ほど、退屈で詰まらないものはなく、結局は担任の先生との相談や、親の勧めもあって立正大学の経済学部へ推薦入学した
 当時は学生運動が活発化し、同じ高校から入学した学友なども、ヘルメットやタオルを巻いてスクラムを組んで校内を占領したシュプレヒコールで賑わせていたし、はたまた何処に修行にゆくのか、
行脚(あんぎゃ)姿(すがた)の仏教学部の生徒が校内に集まる光景を眼にしていた

毎日が退屈な日々と共に2年が過ぎ、兄は大学を卒業してパイロットを目指して航空大学へ進み、弟も青山学院に入学して行った
 我が家は学問系の家族よりも、体育系とまではゆかないがスポーツタイプの家系であって、父は柔道師範、兄はスキーの大会に参加しながら教師もし、弟はサッカーで、私は五目スポーツである

 兄がパイロットとしての夢を追うように、私も父に頼んで美容学校の夜学に通わせて貰う事になった。現代のダブル・スクールである
1年大学を落第したその年、昼間は大学に通いながら、2年間通学の夜学にて美容学校を卒業し、その間、サロンで美容師インターンをしながら大学の卒業と同時に、美容師資格免許も取得した

 当時、インターン生として青山のサロンに勤めさせて貰った時には、授業のない日や祭日を働き、そこで働く先輩の技術者に憧れながら、将来の夢を外国に向けてゆくようになっていった

 ある日、突然、勤務サロンのオーナー事情から閉店してしまった事もあり、取り敢えずは出国先を探す迄の間、赤坂のあるホテルの美容室に数カ月間勤めさせていただいた事がある
 その時に初めてこの業界が師弟関係の強い、厳しい仕事である事を味わった
 当時2,3の男性を除いて全員が女性の美容師軍団であった
 毎日の朝礼と終礼は売上と効率を上げる為のミーティングを繰り返し、一日中暇なく追い捲られたロボットの如く働かされる過酷労働を強いるサロンであった
 学生時代にアルバイトとしてデパートの清掃や、コカコーラ、自動車の陸送、郵便局の夜間仕事などもしてきたけれど、ここまできつく仕事を強制する職業はなかった
 仕事のきつさの割には給料は安く、週6日の労働は1日10時間以上の日も多く、昼間の45分の休憩と夕方の一息の休み時間を除いては、め一杯の仕事漬けであった

 人が機械並に働き、我を忘れて誰もが生活のため、店の為にと頑張っていた当時の事である
徒弟制度の強い主従関係の中での丁稚奉公は、今でも記憶の中に残っている
 文化などという味な豊かさのかけらもなく、良くも悪くも下働きの女性の
(たくま)しい男勝りな汗だけが目立っていた
 女性の嫉妬や意地の悪さを知ったのもこの頃の経験で、気に障るインターン生、中間生があれば、わざときつい仕事だけを回して干すのである
 これらあらゆる業界で働く人達が、一生縣命励んで来たのであるから、日本が他国を凌ぐまでの経済成長をなし遂げたのも、当然の事のように思えるのである

 ある日、青山でのインターン時代にお世話になった先輩から電話を貰い、日本一周の客船で美容師として、20日間程の仕事をしないかと誘いを受けた
 勤めていた赤坂のサロンには、渡米の意向を伝えて退社し、日本一周の客船に乗る事にした

 この船の企画は、政府が東南アジアの留学生を招待したもので、客船に専従する理・美容師は下船し、変りに私達が乗船しての国内航路の旅である

 晴海埠頭を出発して函館、金沢、長崎、鹿児島、広島、神戸と廻る旅程で、毎夜、船内で開かれるアトラクションでは,東南アジアの留学生達との国際文化交流を味わえた楽しい旅でもあった
 そんな国際文化交流を通じて、先進国と後進国の美容業界の様子も見えて来た
 当時の日本では、欧州の最新技術習得を目指して渡航していった美容師が帰国し、ヘアスタイリスト、デザイナーと銘打って業界を一世風靡していた
 まさに時代の流れは西洋化し、欧米からの最新技能は若い美容師の的を得、これまでの髪結い文化の名残も健在しつつ、戦後の第2世代期とも言える欧米旋風が起こってきた頃である
 そしてそれに便乗するかの如く、理美容業界の専門雑誌も欧米志向に輪をかけてヘアスタイルの流行やファッション性を打ち出し、その技能を習得することが当時の若い美容師の的となっていった
 一般向けのヘア雑誌の発行も増え始めた頃で、若い一般女性の間に欧米のニューヘアファッションはどんどん拡がっていった
 ※この美容界の第1世代期とは、ヨーロッパから初期の技術を導入した美容界の大御所、所謂、日本に初めて美容専門学校を設立した世代の山野、真野、メイ牛山などである

 当時、欧州から最新技術を持ち帰った第2世代期の美容師たちは、スタッフ教育をしつつサロン経営を展開し、ヘアショーや小規模ながらカットスクールを開校し、名声を高めていた
 この当時、最も脚光を浴びていた最新技能が、イギリスの理容師(ビダルサッスーン)が創作し始めた通称、サッスーンカットである
 このカット旋風が我々世代の美容師の注目の的となり、美容師としての私の憧れを外国に向けさせる一つの動機でもあった


 その後の第3世代期に入ると、欧米で活躍する美容師の存在が脚光を浴びてくるようになり、日本人の創作技術の高さと独自の感性が、欧米の美容師と拮抗するまでのレベルに達するようになってきた
 そして時を同じくして、欧米からの最新情報は短期間の間に専門雑誌に掲載されるようになり、日本に居ながらも欧米文化の影がうっすらと、想像の眼の奥に見え始めてもきた時期であった
 当時、日本は昭和の50年前後
 欧米と言えばまだまだ遠い遥か彼方の時代から、徐々に距離的にも近さすら感じるようになって来た頃である
 既にヨーロッパ、アメリカを目指す人も増え始め、外国への憧れも盛んになってきた頃、私もアメリカへの美容留学を目指す時期を迎えてきた

続く:人生の成熟期

第2章 希 望
第3章 信仰と心
 
 ジミー F 塚田